IT武装戦略の着眼点

第26話:経営者が「不屈の精神」で取り組むこと!

2016年01月13日

事業経営とは、経営者が命がけでやる商売です。
商売を、単なる金儲けの方便と考えている経営者がいるかもしれませんが、決してそんなことはありません。

社員も、社員の家族も、自分の家族も食べさせていかなければならないのが経営者です。その一人一人に、「本当に良い人生だ!」と心から思ってもらうため、不屈の精神で、生涯を懸けてやるべき崇高な仕事だと思います。


大分県中津市耶馬溪の山国川に面してそそり立つ競秀峰の裾にあるトンネルがあります。菊池寛の小説「恩讐の彼方に」で全国的に知られた「青の洞門」のことです。

江戸時代、諸国遍歴の旅の途中この地を訪れた禅海和尚が、「鎖渡し」と呼ばれる難所で命を落とす人馬を見て、洞門開削工事に取り掛かり、約30年の歳月をかけて1764年に完成したものです。

ノミと槌だけで掘り抜いた隧道の長さは約342メートル、うちトンネル部分の延長が約144メートルあります。現在の洞門は、当時からはかなり変化しているものの、一部に明かり取り窓やノミの跡が残っており、禅海和尚の不屈の精神が偲ばれます。

禅海和尚は、もと越後高田藩の武士の子で、小さいころの名まえを福原市九郎と言いました。市九郎は10歳のときに父をなくし、母とふたり、江戸にでてくらしていました。しかし父のいない市九郎親子のくらしは、みじめなものであったそうです。

母はやがて病気になってしまいますが、市九郎は病気の母のことにも耳をかさないで、悪い仲間にはいり、ケンカをしたり物を盗んだりして、ついにははずみから中川四郎兵衛という人を殺してしまいます。

母は心配のあまり、とうとう、市九郎をのこして死んでしまいます。母の死で目がさめ、悪いなかまからぬけだした市九郎はこれまでの罪をつぐなうため、僧となって、国中を巡り始めます。

そしてこの耶馬渓まで来たとき、多くの人たちが困っている「鎖渡し」のことを聞いて、そのまま通り過ぎられなくなったのでした。それから「カッツン、カッツン・・・」、禅海和尚の振るうノミと槌の音が、耶馬渓の谷間に毎日響くようになります。

通りすがりの村人が、「お坊さん、どうなさるんで?」と聞くと、「この岩を削って、青に抜ける道をつくるのです。」と。この言葉を聞いて、村人たちは耳をうたがい、顔をよせあいました。

しかし禅海和尚は、そうした村人たちにかまわず、雨の日も風の日も、休むことなく力を込めて、ノミと槌を振るいます。念仏を唱えながら、自分が殺してしまった、中川四郎兵衛への、罪のつぐないをしようと、一心に掘り続けます。

日増しに着ものは破れ、髪もヒゲも伸びほうだいに伸びていきます。3ケ月、6ケ月と月日がたっていった。村の子どもたちが集まってきては、あざけて石を投げたりしても、禅海和尚はあいかわらず、手を休めることもなく、じっと念仏を唱えながら、ノミと槌を振るいます。

はじめはわずかな岩穴であったのが、だんだんと深く大きくなっていきます。それからまた1年、2年、3年と月日が経っても、じっと一人座って、ノミと槌を振るう禅海和尚に、いつしか村人たちも心打たれ、手伝う者が出てきます。

石を投げたりしていた村の子どもたちまでも、「お坊さま、手伝いましょう!」と、岩クズ運びを手伝うようになります。

こうしてついに、宝暦13年(1763年)秋の夜ふけ、やせ衰えた禅海和尚の打ったノミの先に、"ぽっかり"と小さな穴が空きます。その穴のむこうに、月明かりの中から、山国川の静かな流れが、禅海和尚の目にハッキリと映りました。

「うううう.........。」30年間の苦しみと喜びが、心の底から湧き出るような声となって、禅海和尚の口からしぼり出されました。こうして約30年にわたる禅海和尚の血のにじむような努力によって、「青の洞門」は開通するのです。

それからのち、ここを通る旅人も村人も、あのけわしい「鎖渡し」を渡ることもなく、行き来できるようになったそうです。
(偕成社発行の大分県の民話より)


さて新しい年を迎えました。自らの大きなロマンと目的を実現するためにも、禅海和尚の「不屈の精神」を心に深く刻み込んで、事業経営に邁進して頂きたいと願います。

お問合せはこちら!

お気軽にお問合せください

050-3152-9723

【受付時間】09:00~17:00(土日祝除く)